自分の子どもが嫌いな人は○○が嫌いなんです

コラム

子どもの不登校でね、「子どもを愛して」「自分を許して」って唸るほど言われませんでした?不登校で辛くて辛くて仕方がないときにこれを言われると、余計にイライラしたものでした。今では私も「自分優先」と先頭きってそう言う側なので^^人生は何が起こるかわかりません。

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子どもが学校に行かなくなった後、泣いて泣いて苦しんだ後、いつの間にか「ま・・元気だしそれでよし」とグッとハードルが低くなります。その域に自分の心がないときはその言葉すら辛く感じます。

では今の自分のハードルはどのくらいのものでしょう?それは一体誰がきめたものでしょう?

息子が高校で不登校になる前の私はすべてを自分より劣っているものと見るほど嫌な母親でした。最高で最上の息子が私の支えでした。でも実際はそれほど素敵な息子ではありませんでした。

自分の理想に近づけるために必死に息子を育ててきました。必死な毎日から急に奈落の底に落とされた不登校。

思えば私自身に課した「子育てのハードル」は身の程知らずの高さでした。

どうして自分だけ?、普通がいい、特別なことは望んでいない、ただただ普通に学校に行ってほしい。そう願った頃にはそれも叶わないほど落ちていました。

自分の位置にあったハードル設定をしないといつまでも苦しむことになります。自分の位置を見るのは難しいです。目に見えるのは人の姿ばかりだから。でも自分の今の位置を自分がわかり、今の位置のハードルを設けないとずっとずっと苦しいです。

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自分の設定したハードルや壁を超えることができなくて、自分の子育てに「自己嫌悪」を感じてしまいます。認めるとか明るく元気にとか言いながら、たまったものが爆発し、ついつい暴言を履いてしまったり、あってはならないかもしれませんが手がでてしまったり。

「自己嫌悪」「自分責め」思うようにやってくれない子どもに対して、それを認められない自分に苦しむ。子育てはこの繰り返し。よその子はできてどうしてうちの子はできないのか。どうしてうちばかり不幸なのか。私の何が悪かったのか。

子供の不登校の辛さの一つはこの「自己嫌悪」「自分責め」があります。例えどんなに優秀に育ったとしてもそれでももっと上をみてはどうしてそれができないの?どうしてこの時点で十分幸せだと思えないの?そんな私が悪いの?とそこでも苦しみます。

自己嫌悪から脱するためにすることは、子どもを理想の姿に育てることでもなく、子どもが理想の姿に育たなくても、苦しみながら笑うことではなく、自己嫌悪を捨てることから。何かで埋めようとせず理屈に頼らず、その自己嫌悪ごと捨ててしまうこと。私は悪くない。悪くないんです。

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思い通りにいかない子どもが憎い。嫌い。それなのに、大好きよって笑えるわけない。寛大にできない自分にまた落ち込む。自分は悪くない。私のせいじゃない。

不登校が大嫌い。そうぐるぐるしているときは、目の前の子どもが嫌いなんじゃなくて、自分が嫌い。こんな人生じゃなかった。こんな生活は望んでない。こんな私が嫌。

私が嫌い。だから子どもも嫌いなんです。嫌いな私が産んだ子はかわいくない。嫌いな自分が育ててたら嫌いで当たり前。そんなの当たり前。幸せになろうと一生懸命育てているのに不登校になっちゃうなんて可愛くないと感じて当たり前です。

辛いのに笑えない。明るくできない。不登校を認められない。当たり前です。

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笑えない。認められない。悔しい。苦しい。その気持を抑え込んで幸せそうに明るい顔して生きるなんて苦しすぎるから。

そんなときは思い切りその気持ちに従って。その後に、自分を労って。今の自分が嫌いなときは子どものことを好きになれないから。イライラしないことをハードルとせずに、イライラしたあと、どうやって落ち着けるか、どうやって自分を労るか、少しでも自分を好きになれるように。イライラまではOKだとハードルを設定してね。

今の自分にあったハードルを設けて、自分ができたことを褒めていこう。今の自分にあったハードルを設定しないと、できない自分にまた苦しみ、自分が嫌いになるから。

今の自分にあったハードルを設定しないと、そのハードルを超えてくれない子どもにがっかりして、子どものことも嫌いになるから。

ハードルが低いことを嘆く辛さがあるけれど、一つずつ超えていこう。スタート位置に立つ前に準備運動はプロだってやること。何でも急には無理なことを自分がわかっていって。順番に超えて必ず幸せになろうね。

それはなんのために怒っているのだろう?

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