子どもが話してくれないからわからない。我が子の不登校。支えたいのに話してくれない。あれがいい。これがいいと試してみるけどイマイチで。そんなことありませんか?
またこんなに支えたのにちょっといいことが起きたら、感謝もなく。自分の手柄のように振る舞い。悪いことがおきたら周りのせいにする。そんなことも・・ありませんか?
自分は悪くない
これを「自分のせい」と思っていない子。(※思わなくてもいいです。これは親もみんなそうですから。)
人は何でも「理由付け」をしたくなります。私も「不登校は必然」だと自分に言い聞かせてみたりして。我が子の今の姿も理由があると思い生きています。
私達親も、子どもの相談を誰かにした時に、「それはその子が甘えている」と言われると「この人はわかってくれない」と思い「それは周りが悪いですよね」そう言われると、ホッとします。それと一緒で心を守るために「悪いことは周りのせい」としてこれ以上落ちていかないようにしている姿なので、これもありです。
いいことは自分の手柄
今日は子どもが早起きした。そんな時、「私頑張ったよ」と言う子ども。決して子どもは「お母さんの毎日のごはんがいいから早く目が覚めるようになったよ」とは言いません。
また親も「なんていい子なんだ。自分から起きるなんて!」と思わずに「お?私がやってきたことの成果が出てきたかな?」と思います。
これは心理的にあることなので、だれが悪いとか、その考え方は・・と正す必要はありません。人はこう考えてしまうものだと知ることがポイントです。
外に出ないのは自分のせいじゃない
上記の考え方を知ると、「外に出ないのは自分のせいじゃない」と思っている場合があるということ。頑張るのは私じゃない。人が頑張ること。私は悪くない。そう思っている子に提案や代替案を出しても動かないのも当然な話で。
私達ができるのは「悪いとしている外側になにがあるのか」を聞くことから。それに対してどうしてそう考えるのか。どうしてそう感じるのか。
主観と客観
理由を話してくれたら、さてどうしましょうか。まずは共感でしょうか?その共感も「わかる〜」だと「わかるわけないじゃん」と心を閉ざしてしまう時があります。
つらい気持ちはその人のもの。その主観はその人のもの。客観的に見ている私達にはわかるわけないんです。
共感って、自分にはわからないけれど、そうだったのですね。とその気持ちはあなたにしかわからないけどそんな事を話してくれてありがとう。の気持ちで「わかってもらえないくらい辛いことをわかってもらえる」という主観を尊重する共感がいいのかなと私は思っています。
いじめの謝罪なども、当事者や家族のもつ主観に対して客観的な謝罪は心を埋めることができず、謝罪を要求し、実際謝罪があっても、「謝ってもらっても納得いかない」というズレがでてきます。
辛さの共感はできないけれど、わからないくらい辛いことをわかる共感をしよう。私はそう思っています。
どうして話してもわかってもらえないと思うのだろう。