私自身もそうだったのですが、子どもの不登校を必死に支えているときって、「子ども」のことに関して、それは「事実」なのか「私がそう思い込んでいること」なのかが区別がついていない時が多いです。
小さなときから懸命にお世話をしてきた我が子のこと。子どものことはなんでもわかっている(つもり)で先生と話をする時に、ついつい「息子はこうなんです」「娘はこうなんです」といっている時があります。
「〜らしい」から「〜です」と変換されていく言葉
子どもの学校の先生。「あの先生いい先生だったなぁ」と思い出すのはどんな先生でしょう?
- 行事大好きな先生
- 経験豊富なベテラン先生
- やる気いっぱい新人先生
親同士でも「3組の先生がいいよね〜!」とか「うち今年1組。あの先生最悪〜」とか話したりするものです。
親同士の噂話で
- あの先生厳しいらしいよ〜
- あの先生宿題多いらしいよ〜
そんな話がいつの間にか自分の中の情報になり、「らしい」の言葉が外れ
- あの先生は厳しい
- あの先生は宿題が多い
と実際自分自身が体験していないことが事実として言葉になっていきます
「自分にとって」は「みんなにとって」ではない
子どもの不登校で親が一番に頼りにするのが担任の先生です。私は息子の高校の担任の先生には「こりゃダメだ」と言う印象しか残っていません。
私が周りの人に「●●高校の▲▲先生は、子供の不登校では全然頼りにならなかった」そう話したら、その言葉は人を伝う毎に「●●高校は不登校対応がなってないらしいよ」そう事実に変わっていきます
息子にとってどうなのか、私にとってどうなのか、不登校していない生徒にとってどうなのか、不登校していない生徒の保護者にとってどうなのか、学校側としてどうなのか。
自分がそう思うことは、みんなも同じように感じているとは限らない。たとえ同じ状況で同じ場所と時間にいても感じることは一人一人違うもの。
学校に戻してくれる先生が親にとってはいい先生と感じても、子ども本人にとってはそうではなかったり。
わかり合おうとどんなに話し合ってもそれでも気持ちをわかり合うことはできないもの。
自分が望んでいることが、自分がいいと思っていることが、自分が駄目だと思っていることが、子どもにとっていいことだとは限らないものです。
わからないものはわからない
子どもの気持ちがわからない。このことは決して悪いことではありません。努力が足りないことではありません。コミュニケーション不足とか、親失格なんてことありません。
わからないものはわからない。そんなこともあるんだなって知ること。それは自分にも相手にもあるものだと知るだけ。本当のことは本人しかわからない。
子どもの不登校で悩んでいるときは、「だったらどうしたらいいの?」って思うんです。でもね・・わからないことってあるもの。だから自分にとってのよかれに自信を持とう^^
それが人と違っていたらその時にお互いにいい方向に修正していけるように。正解の基準は人それぞれだし、何が正解かなんてやってみないとわからないから。
まとめ
自分にとって・・の気持ちを「事実」として決めつけないように。
同じ映画を一緒に観ても、観ているポイントや感想はピッタリ一緒なんてないもの。それはわかりあえないと苦しまず、わかりあえないことはあると知っておくだけでお互いを責めずにすみます。
自分の感情と事実を分けて考えること
これを意識するだけでわかりあえなくても苦しくないですよ^^この事に関して面白い本があります。子どもは不登校になったけれど、不登校に関する本じゃないところからのほうが私は刺激を受けて楽しいと感じています^^
これもひとそれぞれ。よかったら読んでみてくださいね
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