【子どもの不登校】「認められなくて辛いんです。」「私いつまでも変われなくて辛いんです。」公式ラインあてにたまにこんなつぶやきが届きます。どんな言葉でも放つことに意味があると思っているので大歓迎です。個人的にお返事はあまりしていないので(追いつけなくてすいません)こちらで書きますね。
認められたら何が変わるのかな?
子どもの不登校。認めることが目標になっている時、「認められたら」なにが変わるのでしょう。認めたら子どもは部屋から出てくるの?認めたらご主人と仲よくなれるの?認めたら自分が楽になるの?認めたら何が変わるのでしょう。
認めることで起きる(だろう)ことは100%の約束はありません。今よりもいいなんて、なってみないとわからないです。
認められない親はダメな親かな?
認めた親のイメージがあまりにもいい感じにイメージがついてしまっていて(よくあるキラキラ講座)認められない親はダメ親ってかなしくなってしまいますよね。私もそれに苦しめられたのですごくわかります。
例えばね、子どもの不登校を子どもの自由と認めて親は自分の時間を使って楽しむ。自分の人生の時間を楽しむ。ここまでは私はとてもいいと思います。でもだから「家事や育児を放棄する」ことはまた別のことだと思うんですね。
どちらかに振り切りやすいのが私達不登校の親の特徴で・・どちらも極端な面ばかりフューチャーされれるからよろしくなくて・・。
認めてもダメ親はいるし、認められなくても最高のママはいるんです^^それは自分で決めてもいいし、子どもが判断してもいい。ここで最もいらないのは他人の評価^^
はい!それブロック〜!
この言葉、私が「なんじゃそりゃ」と思った言葉です。やたら明るい不登校ママ軍団と話す機会があり、当時流行っていたのか、何を言っても「はいそれブロック〜」と言い合っていたのがなんじゃそりゃ^^だったんですね。私からしたら「それをブロックだと思っているその心がブロックだよね」と。
こちらはいい。こちらはダメなんて決めていることがそもそもじゃない?と言いたかったけど、絶対的にやられる自信があったので言いませんでしたけどね。
私こだわってないから
こだわっていないを強調する人って、こだわっている人。認めると言っている人は、認められてない人。こだわってると強調する人にもこだわれてない部分もあって、認められないと言いながらも、十分認めてあげていたりね。
どっちだってあることだから。「自由」と言いながら「自由の規則」に縛られていたり、「不自由」と言いながら「結構好き勝手」してたりね。
時にはこだわり、時にはこだわらない。時には認めて、時には認められない。その比重がどちらが多いのか、そう感じる日が1年を通してどちらが多いのか。そうやってだんだんと自分が望む方に比重が増えていくように。人ってそんなに急には変われないし、頑張っても無理なものってあるからね。
どうして認めないといけないの?